こころの病と闘いなから「働き方をかえる」!YOLOなダイアリー

一度きりの人生(YOLO)、私同様に「こころの病い」と闘う人へ。

「障害」になって気づいたこと

先日、FMラジオのJ-Wave 「Jam-the-World」の番組で、「相模原障害者施設連続殺傷事件から一年」の特集が組まれ、障害者に対するヘイトがなぜ起きてしまったのか?という話があった。

私自身、ここでいう重度の障害者ではないが、私も一応「身体表現性障害」で、ある意味、「障害者」のひとりである。

一年前この事件が起きた時には、休職直前の最も体調が悪かった時期だったこともあり、「ひどい事件が起きてしまったんだな」と感じた程度しか正直覚えていない。

だが、今回の「Jam The World」を聴いて改めて考えてみると、「この犯人は心の底から障害者やその家族の気持ちや「障害」の持つ意味を理解していたのだろうか?」と改めて疑問に思った。

 

  ところで、この「障害」という言葉の持つ意味について、私も軽いながらも障害を持つ一人として、僭越ながら考えみたのですが、(もし間違いがあればすみませんが多めにみて下さい)

私なりの解釈だと、

・産まれながら(先天的)、或いは生後に事故や病気(後天的)の二種類の理由からなる、からだやこころの困難である

・一時的ではなく、長期的に(或いは生涯)続く

・「完治」する可能性は軽度の精神疾患を除いては低い(特に身体的障害だと、治る可能性は極めて低い)と言われている

・代わりに症状が一時的に治ったり軽くなったりする、という意味で「寛解」という言葉が存在する

(「完治」ではなく「症状がない」という状態)

 

「障害」が意味するところは、残念ながらネガティヴな要素が多く感じられてしまう。しかしながら、障害者にも種類がたくさんあり、人の援助を借りながら健常者と変わらず生活できる人もいるし、困難の中に新たな希望を見出して前進してゆこうと努力している人もいる。(私が尊敬する人の一人、車イステニスの王者、国枝真吾選手は健常者とは比べ物にならないくらいの尋常じゃない精神力だと思う)

 

   先ほどのJWave Jam-the-Worldの「相模原障害者施設連続殺傷事件から一年」の話に戻るが、私が憤りを感じたのは、何故この犯人が「障害者」の方々に対して、ヘイトの気持ちでなく、一筋の光を見つけられる心境にならなかったのか?だ。非常に残念でならない。

特に先天的に障害を持った方に対するヘイトの話(「一生迷惑をかけていくだけの価値のない存在だ」だという誤った思想)を聞いた時、私はもっと違う角度で物事を見られなかったのか?と思った。

  だって、特に家族にとっては子供が障害者であれどうであれ、唯一無二の愛する存在なのだから。。

 

ここで、番組の中でゲストとして登場した、元毎日新聞記者で、自閉症の息子の父親という立場から障害者の社会参加について発信している、RKB毎日放送の東京報道部長・神戸金史さんから息子へあてた詩が非常に印象に残ったので、原文をそのまま紹介したいと思います。

 

***【障害を持つ息子へ】***
幼い次男は、「お兄ちゃんはしゃべれないんだよ」と言います。
いずれ「お前の兄ちゃんは馬鹿だ」と言われ、泣くんだろう。
想像すると、私は朝食が喉を通らなくなります。

そんな朝を何度も過ごして、突然気が付いたのです。

弟よ、お前は人にいじめられるかもしれないが、
人をいじめる人にはならないだろう。
生まれた時から、障害のある兄ちゃんがいた。
お前の人格は、この兄ちゃんがいた環境で形作られたのだ。
お前は優しい、いい男に育つだろう。

息子よ。
君は、弟の代わりに、
同級生の代わりに、
私の代わりに、
障害を持って生まれてきた。

息子よ。
そのままで、いい。
それで、うちの子。
それが、うちの子。
あなたが生まれてきてくれてよかった。
             (詩より一部抜粋)

 

   この詩は、今回のおぞましい事件が起きたことに対して神戸氏がfacebookに投稿した内容だそうですが、のちにその詩が大反響を呼んで出版化されたそうです。読んでいただいて気付いたかも知れませんが、彼の素晴らしいところは、

彼は事件を起こした犯人に対して怒りをぶつけるのではなく、「障害者を持つ家族になったことによって、味わうことのできる経験があったり、自分には

障害者の家族がいるということに感謝したい」、という、逆説的に温かいメッセージをだったこと。

 

彼は少なくとも、今回の犯人の植松被告の、障害者に対するヘイト思想とは真逆な視点であり、障害者がいることに対して、障害者の家族の存在が人間の人生にとってとても価値や意味がうまれ、たとえ困難があって悩み苦しんだとしても、それが”人生の学び”という非常に価値ある形で人生の糧となる。そして最終的には彼らの存在は十分社会に貢献している、という内容でした。

 

「障害者」という、一見ネガティヴな部分を非常に高尚な形で(高みのある視点)認め、感謝する、という素晴らしい、神戸氏らしい独自の言葉に力を感じ、私も心が動かされた。

↓↓↓【参考】神戸氏の図書

http://bookman.co.jp/shop/essay/9784893088710/

 

   話はまた戻るが、私は今まで障害者のこととかあまり深く考えたことがなかったのだが、今回、このテーマについてかいた理由は、やはり自分自身が「障害」を患って障害と闘う大変さに初めて気づいたから。

またもうひとつ思ったことだが、(自分も含めて)障害を持つ人間に対して差別的な感情や変な同情(憐れみ)を持たれることに対して、皆んなきっと嫌な気持ちになるのだろうな、と痛感した。

障害者の方々は、きっと、たとえどんな困難であっても価値ある一人の人間として認めて欲しいし、認められるようになりたい、迷惑はかけたくない、と思っているのではないだろうか?

 

そろそろ話をまとめて行きたいと思うが、私が障害になって気づいたこと、それは

◇「障害者」を決して蔑視してはいけない

一つの人間の個性として認められるような大きな心をみんなが持って欲しい。障害者本人たちもきっとそう思っている

 

◇障害(障害者の存在)から必ず学びがある

障害者を持つ本人、或いは障害者を持つ家族は、大変な困難や苦労を味わい、悩み苦しみながら生きているはずだが、皆んなそこからかけがえのない学びがあり、人を成長させる何かをきっと感じとったり、皆んなきっと新たな成長につながる発見に気づくはずである

 

◇障害は乗り越えるべき人生の使命である

産まれながらに障害を持った方とその家族は、多くの困難や逆境の中での生活を余儀なくされるだろう。でもそういう方々やその家族はそれを人生の使命として受け止め、神がくれた宿題と信じてそれを人生かけて乗り越えゆこうと覚悟を決めているはずである。そして、困難の先にはさらなる人生の高みと心の幸せ、満足感が訪れることを信じたい。

 

最後に、私も現在障害と闘っているが、いつも自分に都合のいいように、「これは試練をもらっただけで成長するチャンスなんだ」と自分に言い聞かせて、苦しいことがあっても、前を向いて毎日を一生懸命生きるように変わってきたのではないか、と思う。(俗に言う、「ピンチはチャンス」だと。)いつか、障害になったことに感謝できる日がくることを願いつつ。。。

 

人生は一度きり。

You Only Live Once.